いつも新たな太陽を

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子供の声は、騒音?

法律とか訴訟とかの範疇に入ってくると、騒音というのは、また違った意味を持ってくると思う。

平たく「声がやかましい」「いろんな大きな音をたてる」そういう意味なら、そうだろう。

私は騒音と思って保育園の建設を反対する人の気持ちもわかるし、当事者でない人間が、歩み寄って解決策も示さず自分の正義を主張するのはどうかと思う。

私は子供の頃に学校の目の前で、幼稚園の隣の敷地に住んでいた。前と言っても運動場側で壁ではなくて金網のフェンスなので、何も遮るものなくダイレクトに声が聞こえる。

保育園なんか比にならない。

全員出てくると1500人。

どのくらいやかましいかを知っているし、幼稚園とかだと、どれだけの人間が溜まるかも知っている。

空港と同じようにサッシは二重にエアコン設置も公費で負担する。近辺に立ち止まって話をしても良いが、分単位で人数分の料金を徴収して私の収入にしてよく、料金も設定自由、と言われてもお断りするレベルだ。

でも、私は子供の声が騒音とは言わないし、思わない。先の通りやかましいなとは思う。

この感覚は、子供や老人が食べこぼしてるのを見て、汚いと思うかあらまぁって思うか。これと近いものがあると思う。

同じ事象をどのような感情で捉えるかである。

話を戻すと、今でも家にいて大声で遊んでいるのが聞こえると、気にはなるけど、騒音とは思わないし、やめさせようとも思わない。

  1. 工事現場の騒音と同じなので建設を反対。
  2. やかましいとは思うけど、反対しない。対策は欲しい。(お金だったり、設備だったり)
  3. やかましいと思うけど、反対しない。(何も求めない)
  4. なんとも思わない。

このくらいの意見の違いは識別する必要があり、それが行政が担うべきところだと思う。

どの立場のどの意見で、どういった解決策を考えてのことなのかが分からないと、「日本死ね」と同じで、話題しか振りまかない。

この問題は話題を振りまく時期はとっくに過ぎていて、おそらくは反対している人の子供があなたと同じ世代になった時、日本が終わってるってことだ。

なんでそんな風に世代を決めつけるかって?

だって、保育園のうるさい時間に、わたしは家にいないし。平日が休日の人が、反対して中止に追い込むほどの人数住んでるとは思えないし。

多分そうだとおもうなー。